海洋博覧会の開催を2〜3週間後に控える頃まで、私たちはモビレージで暮らしていた。
この2か月足らずのモビレージでの生活は、その後の俺の人生において、多少ならずとも影響を残したと言えなくもない。
もちろん遊びで来ていた訳ではないが、正直言って、旅行気分も半分はあった。
そこに集まっていた若者の多くにとって、沖縄は初めて訪れる場所だった。
南国らしい空気、どこか異国のような雰囲気、そして米軍基地のある特別な環境。(もちろん米軍基地は日本各地に有るけど。)
そのすべてが新鮮で、俺たちはその空気を楽しんでいた。
仕事はやがて開催される海洋博会場内に設置されたアクアポリスの警備だ。
アクアポリスは、日本政府が出展しているパビリオンの一種で、海に浮かぶ未来都市をイメージして創れれている。
文字どうり海に浮いているのだ。
ロワーハルと言う大きな鉄で出来た浮袋を四本も持っている。
その中に海水を注入したり排水したりして、安定を保つように設計されている。
台風や波が高い時はロワーハルに海水を注入して管制室の真下(三階部分)まで沈める。
沖側に四本、陸側に四本アンカーが設置してあり、それらを引いたり伸ばしたりして、移動も出来る優れものである。
陸側に引いてある時は、渡海橋という橋で繋がれている。
俺たちが警備に就いた時はまだ橋は繋がれておらず、アクアポリスもやや沖合にあった。
そのため警備につく時はいつも本部港からスバル号という船でアクアポリスに向かった。
そこで日勤組と夜勤組が交代する。
仕事内容は、ワッチと言って所定の場所に立って異常がないか見張る、30分で交代。
四箇所をローテーションして二時間経ったら一時間休憩。これを4回繰り返し、十二時間後に交代が来るという簡単な仕事。
日勤を二日やると翌日は休みで、休みの次の日は夜勤からスタート。なので、三十六時間近く休める計算になる。
夜勤も二日続けると、夜勤明け、翌日が休みなのでけっこう時間があった。
モビレージは名護の近くにあり、仕事のない日にはよく名護まで出かけた。
当時の名護は、素朴な沖縄の町という印象だった。
東京や本土の町とは違う、南国らしいゆったりした雰囲気があった。
長距離バスで那覇まで出かけたりすることもあった。
俺は無性にラーメンが食べたくなって那覇で探したが、普通のしょうゆラーメンを出す店はなかなか見つからなかった。
ようやく見つけたのは、当時流行していた札幌ラーメンの「どさん子」という味噌ラーメンの店だった。
後日、コザの町外れに小さな中華屋さんを見つけた。
そこで食べたラーメンは絶品だった。
鶏出汁の澄んだスープにコシのある細麺で、シンプルな醤油ラーメンだったがたいへん美味しかった。
仲間の中に渡辺という奴がいて、中古の軽自動車を持ち込んでいた。休みの時によく借りて遠出した。
コザの中華屋さんを見つけたのも、車を借りてドライブ中に偶然見つけたのだった。

梅雨の時期で雨もよく降り、雨の後には大きなアフリカマイマイがたくさん出てきた。
本土では見たことのない大きさのカタツムリで、沖縄らしい光景の一つとして記憶に残っている。
若い人たちが大勢集まり、仕事のない日は一緒に出かけたり、麻雀したりわいわい過ごしたりした。
モビレージでの生活は、毎日が刺激的だった。
海洋博覧会が近づくにつれ、私たちは今帰仁村の仲宗根に新しくできた「沖縄リゾートステーション」と言う宿舎へ移ることになる。
<モビレージ概要>
『1975年(昭和50年)に名護の北側(主に今帰仁村や本部町周辺)に開設された「モビレージ(海洋博モビレージ / 今帰仁モビレージ等)」は、同年に開催された沖縄国際海洋博覧会(海洋博)に合わせてつくられたトレーラーハウス型の大型宿泊施設です。
当時のモビレージの景観・特徴
• アメリカンスタイルのトレーラーハウス:広大な海沿いの敷地に、アメリカから輸入された大型のキャンピングトレーラーや簡易コテージが規則正しく立ち並んでいました。
• 当時の最先端リゾート様式:海洋博に伴う深刻なホテル不足を解消するための期間限定的な役割もありましたが、ヤシの木やエメラルドグリーンの海と相まって、当時としては非常にモダンでアメリカンカジュアルなリゾート空間として親しまれました。』


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