リゾートステーションの裏に広がっていた海
モビレージから移った沖縄リゾートステーションでの生活が始まった。
施設の入口付近には、本物の蒸気機関車が置かれていた。
私の記憶では、新橋駅前のSL広場のように、大きな機関車がドンと置かれていた印象があったが、
最近、当時の8ミリ映像を見つけて確認してみると、ホームのような設備も映っていた。しかし、正直なところ、その部分についてはまったく記憶がない。
ただ、寝台車が並んでいたことや、プール、レストラン、共同浴場があったことは、今でもよく覚えている。
施設の裏には林があり、そこを抜けると高さ15メートルほどの崖になっていた。粗末な階段を降りると、幅10メートルほどの浜辺があり、その先には沖縄の青い海が広がっていた。
監視員もいなければ、売店もシャワーもない。ただの自然の浜辺だった。
仕事が休みの日や勤務明けで特に予定がないときは、ほとんど毎日のようにそこで過ごした。
マスクとシュノーケル、安物のフィンを着けて海へ入る。
岸から10メートルほど進むと、水深1メートルほどの枝珊瑚の群生が広がっていた。
さらに100メートルほど(そんなに無かったかもしれない)沖へ泳ぐと、海底が突然垂直に落ち込む場所に出る。
いわゆるドロップオフだ。
15メートル以上はあったと思う。そこから先は本格的な外海で、海の色も深くなり、何とも言えない恐怖を感じた。けっこう波もあった。
ところが、その垂直の壁には無数の穴があり、そこには伊勢海老が住み着いていたのだ。
夜の海に舞ったフェアリーダスト
昼間、伊勢海老はなかなか穴から出てこなようだ。
そこで仲間たちと相談した。
「夜行性なんだから、夜ならもっと獲れるんじゃね」
そんな単純な発想から、夜の伊勢海老漁を計画した。
浜辺に焚き火を起こし、2人を焚き火番として残す。残りの4、5人が防水ライトとモリを持って、真っ暗な海へ入った。
夜の海は怖かった。
街灯など一つもなく、ライトの届かない先は漆黒の闇だった。
ところが、しばらく泳いでいると、不思議な光景に出会った。
前を泳ぐ仲間のフィンから、無数の小さな光の粒がこぼれている。
きざな言い方だけど、まるでピーターパンのフェアリーダストのようだった。
気がつくと、自分の体の周りにも光の粒がまとわりついていた。
夜光虫だった。
50年以上たった今でも、あの幻想的な光景は忘れられない。
目的地に着くと、予想どおり伊勢海老が穴から顔を出したり、壁を這ったりしていた。
しかし、モリを向けるとなぜか素早く逃げてしまう。
結局、捕まえられたのは2尾だけだった。
恐怖もあって早々に引き揚げ、焚き火を目印に浜へ戻った。
宿舎に帰って焼き伊勢海老で乾杯した。めっちゃ美味かった。
しかし大変怖い思いもし危険も感じたので、それ以来、夜のリーフへ潜ることはなかった。
洞穴の湧き水と子供たち
浜辺の崖には、小さな洞穴があった。
奥行きは5〜6メートルほどだったと思う。奥は少し広くなっていて、壁から小さな滝のように真水が湧き出していた。
その水は細い流れとなって浜を通り、海へ注いでいた。
私たちは海から上がると、いつもその湧き水で体を洗った。
天然のシャワーだった。
ある日、浜の向こうから5、6人の子供たちが、小さなヤギを連れて歩いてきた。
小学校高学年から中学生くらいだったと思う。
少し話をした後、子供たちはヤギを連れて洞穴へ入っていった。
しばらくして海から上がると、洞穴から流れ出している水が赤くなっていた。
不思議に思って中をのぞくと、なんと子供たちがヤギを解体し、鍋で煮ていた。
これには驚いた。
ただ、不思議と恐怖は感じなかった。
子供たちから「一緒に食べていかないか」と誘われたが、さすがに遠慮した。
沖縄にはヤギを食べる文化があることは後に知ったが、あの子供たちがなぜ、あの場所でヤギを料理していたのかは分からない。
その後も私たちは、変わらず洞穴の湧き水を使い続けた。
今でも当時の仲間と会うと、あの光景が話題になる。
海からもらった宝物

浜辺には貝殻や不思議な海の生き物がたくさんあった。
イモ貝を採って茹でて食べたり、殻をヤスリで削って指輪やペンダントを作ったりした。
シャコガイも採った。
身を食べた後の大きな貝殻は、灰皿や小皿、小物入れにした。
パイプウニという、太い棘を持つウニもいた。
初めて見たときは何なのか分からなかったが、棘を乾燥させるとカランカランといい音がした。
そこで棘の根元に穴を開け、糸で何本も吊り下げて、風鈴のような飾り物を作った。
また、浜辺には直径5〜6ミリほどの薄い円盤状の殻が落ちていた。
確か当時は「ハシシェル」と呼んでいたように思う。
真ん中に自然な穴が開いていて、細い釣り糸を通すとネックレスやブレスレットになった。
今調べてみると、ゼニイシという有孔虫の仲間だった可能性が高いらしい。
作ったアクセサリーは自分で身につけたり、親しい女の子にプレゼントしたりした。
東京へ持ち帰ったものもある。
今でも探せば、家のどこかから出てくるかもしれない。
日常だった非日常
当時の私たちにとって、こうした暮らしは特別なことではなかった。
毎日のように海に潜り、貝を採り、食べ、拾ったもので遊び道具を作った。
それが日常だった。
しかし、50年以上たった今、東京で暮らしながら振り返ると、あの毎日はまさに非日常だったと思う。
東京にいたら、決して経験できなかったことばかりだ。
もちろん、私たちが楽しんでいた海も、地元の人たちにとっては生活を支える場所だった。漁業や農業の苦労を、当時の私が理解していたわけではない。
それでも、あの8か月は私の人生に大きな影響を与えたように思う。
不思議なことに、当時の私は、あの時間を過ごしながら、ふと感じることがあった。
「今経験していることは、きっと何十年か後に、忘れられない思い出になるんだろうな」
そして今、70歳になった私は、こうしてあの海のことを思い出している。
あの夜の海に舞ったフェアリーダストも、洞穴の湧き水も、浜辺で拾った小さな貝殻も。
すべてが、今も私の中に残っている。
1. 沖縄リゾートステーションの概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | 沖縄リゾートステーション |
| 所在地 | 沖縄県国頭郡今帰仁村字仲宗根 |
| 開業 | 1975年7月1日 |
| 完成 | 1975年6月28日 |
| 敷地面積 | 約4万坪(約13万2,000㎡) |
| 総工費 | 約6億円 |
| 運営 | 沖縄県リゾート開発会社 |
| 主な目的 | 海洋博来場者の宿泊需要への対応、沖縄北部の観光開発 |
| 営業終了 | 1982年ごろ |
2. 最大の特徴は「列車ホテル」
この施設の目玉は、本物の国鉄車両を利用した宿泊施設でした。
使われていた車両は次のとおり。
| 車両 | 数 |
|---|---|
| 蒸気機関車 C57-87 | 1両 |
| 寝台車 | 10両 |
| 娯楽車 | 2両 |
| 食堂車 | 1両 |
| 喫茶車 | 2両 |
| 合計 | 16両 |
寝台車だけで240人が宿泊できました。
車両は国鉄から無償で譲渡され、北海道で現役を引退したSLとともに、1975年5月に沖縄へ運ばれました。
3. 宿泊施設と設備
列車ホテル以外にも、次の施設がありました。
- コテージ形式の宿泊棟
- プール
- バレーコート、野球場
- サイクリング設備
- レストラン、売店
- 会議室
- 共同浴場

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